モンテッソーリ教育については、よく卒園生の活躍や教具が取り上げられますね。
ここでは少し知識を深めて、モンテッソーリ教育の始まりについてまとめます。
モンテッソーリ教育の誕生にはモンテッソーリの苦悩や努力、視点の柔軟さ、そしていくつもの印象的な物語が詰まっています!
イタリア初の女医、マリア・モンテッソーリ
マリア・モンテッソーリは1874年8月31日イタリアのアンコナに生まれました。保守的な父とやさしい母に育てられ、成績優秀で活発な女の子でした。
やがて教師の道を両親から勧められますが、断固拒否。数学と生物学への興味が強かったため、医者になることを決意します。
しかし、当時イタリアに女医は1人もいませんでした。
なぜ女性なのに医学部に入学できたかというと、願書提出の際、MariaをMarioと大学側が見間違えて、男性だと思ったというのです。
なんと、見間違えが歴史を動かしたのです。
そこからも教育委員会に直談判したりと数々の困難を乗り換え、入学が許されたモンテッソーリは男性社会に苦労しながらも、抜群の成績で医学部を卒業。
イタリア初の女医となりました。
心身障害児との出会い
大学を出たモンテッソーリはローマ大学の精神科クリニックで教授のアシスタントしてとして働きました。
ここで出会ったのはたくさんの心身障害児たちです。
保護施設には牢獄に入れられた囚人ののように、おもちゃも何もない空っぽの部屋に子どもたちが入れられていました。
係の女性はその子供たちが、食事が終わった後に床を這いずりまわってパン屑を漁る様子を卑しんでいましたが、モンテッソーリはこのように考えました。
この子供たちが食べ物よりももっと次元の高い別なものを求めているのだということを知ったのです。それは、いたいけな子とも達が、手を使うことによって獲得できる知性の道だということに気づいたからです。『モンテッソーリの発見』E.M.スタンディング著
この時からモンテッソーリはすでに子どもの行動の意味を大人の目線から解釈することはなく、子どもの立場で考えていたのです。
こうして、モンテッソーリ は心身障害児の問題は医学上の問題というより、教育上の問題ではないかと考え始めます。
モンテッソーリは心身障害児生涯を捧げた2人のフランス人医師、ジャン・イタールとエドワール・セガンの研究から多くを学びました。
心身障害児への教育
モンテッソーリの考えに当時の教育相のグイド・バチェリ博士が興味を示し、公立の精神薄弱児学校が設立され、ローマ中の心身障害児が集められました。
ここでモンテッソーリは数々の教材を生み出します。
何よりすごいのは自ら教えることに専念したことです。
モンテッソーリは心身障害児の教育法について、ロンドンやパリを飛び回り、あらゆることを学びました。
それと同時に、ローマでは日中は子ども達と過ごし、夜はノートをとり、データを図表に表し、比較、分析、思案した末に新しい教材が準備されました。
そうした日々の実践の積み重なりによって、心身障害児たちがみるみる正常化される様子を見るうちに、モンテッソーリはこのやり方は健常児にも応用できるのではないかと思い始めます。
世界で最初のモンテッソーリ子どもの家の誕生!
研究成果を発表したり、雑誌での取材を受けたりと有名になっていたモンテッソーリは、サン・ロレンツォ地帯のスラム街の子どもたちの世話役をお願いされます。
そこは、千人以上のローマで最も貧しい人たちの集まるアパートです。
昼間、大人たちが働く間、就学前の子どもたちが家に残され、「まるで愚かな幼い野蛮人」のように、階段を駆け上がったり騒ぎ立てたりするので、修繕費に困った管理者側が、雑誌に載っていたモンテッソーリに声をかけたのです。
モンテッソーリも自身の経験を健常児に応用するチャンスとして承諾し、世界で最初のモンテッソーリ子どもの家Casa dei Bambiniが始まりました。
ちょっと変わった保育園
貧しいスラムの中の保育施設におびえた様子の子や栄養失調の子どもが約60人集められました。
予算は限られていたため、まずは教材と子どもサイズの机と椅子を用意し、モンテッソーリは他にも仕事があったため、毎日の世話をする保育者として門番の娘やお針子に声をかけました。
その保育者にモンテッソーリは特別な仕事を指示せず、子どもたちを見守り、教材の使い方を正しく見せるように伝えたのでした。
もしもこれを教師に頼んでいたとしたら、きっと教師は従来の教え込む教育観からは脱却できなかったでしょう。
ここでも、意図せぬ偶然がモンテッソーリ教育の誕生に貢献したのでした。
今や世界で何千校にも広がるモンテッソーリ園の始まりの物語でした。
実は私、この園に実際に見学に行って参りました!
現地の様子はこちらです↓
参考文献
『モンテッソーリの発見』E.M.スタンディング著,2010
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